【百年紅禍】31回目の6月4日 天安門大虐殺

文化大革命収束後、崩壊の危機に瀕した中国経済を立て直すために、中国共産党はいわゆる「改革開放政策」を実施しました。しかし、まもなくして様々な社会問題が浮上し、結果的に1989年の全国的な民主化運動が巻き起こりました。中共は民衆に銃口を向け、戦車で学生を轢きました。31年後の今でも、あの日の真相は依然として中国共産党のタブーです。

10年の文化大革命を経て、中国経済は崩壊の危機に瀕し、中国共産党はやむなく社会主義計画経済を一部諦め、改革開放を始めました。しかし間も無くして、官僚の汚職腐敗、権力の濫用など、一連の社会問題が浮上し、社会の不満を引き起こしました。

民主活動家 張健氏
「改革開放の時期から、中共の腐敗が大きくなる兆しをすでに感じていた。そのため、民間からの声が高まっていた」

1978年から1986年にかけて、民間の不満の声はすでに現れはじめていました。1986年、安徽省合肥市や北京などの大学生が経済の自由や民主主義、法治を求めて、デモ行進を行いました。当時の共産党トップ、胡耀邦総書記が、強力な弾圧を行わなかったことが、中共強硬派の不満を買い、結果的に胡耀邦は1987年に辞任に追い込まれました。

1989年4月15日、胡耀邦は心臓発作で急逝しました。 比較的開明的だった彼を偲び、北京の大学生たちは、天安門広場などで哀悼集会を開きました。 集会に参加した一部の大学生は、当局が胡耀邦の見解を再評価し、官僚の汚職腐敗、報道の規制などについて解決するよう求めました。

学生運動は4月から5月まで続き、その間、一部の学生がハンガーストライキを始めました。5月17日には数百万人の北京市民がデモを行い、学生への支持と同情を表明しました。当時、デモには軍や警察、メディア、政府関係者なども参加しました。 中国各地でも、400を超える都市で抗議活動が行われました。

民主運動家 張健氏
「当時の主な訴えは、汚職官僚を打倒することだった。中共の洗脳がすでに効果を発揮していたので、当時の多くの人は『汚職腐敗は反対するが、国の体制は反対しない』という考えだった。この抗議活動は要求が高くなく、組織も緩かったが、それでも中共に人民のパワーへの恐怖を感じさせるには十分だった」

当時の共産党総書記、趙紫陽(ちょう・しよう)は学生に同情し、対話による解決を提唱し、5月19日には天安門広場に出向き、学生たちにハンガーストライキを終わらせるよう呼びかけました。 しかしこの日、中国共産党の強硬派は戒厳令の発動を決め、翌日には、党の大物たちが裏で趙紫陽の更迭を決めました。

6月3日午後、共産党、政府、軍の一部の幹部が再び会議を開き、学生の平和的な請願を「反革命暴動」と定義し、当日夜に軍と武装警察を天安門広場に派遣し、武力排除することを決めました。

天安門事件元学生リーダー 王軍涛氏
「軍の司令部が各部隊に与えられた命令は、代価を惜しまず、手段を選ばずに、指定された時間に指定された場所に到着することだった」

6月3日夜、中共解放軍の第38軍、第63軍、第28軍など10以上の集団軍が北京の四方から天安門広場に向かって突き進みました。市民たちは自発的にバリケードを設置し、軍隊の前進を阻止しようとしました。

6月3日午後10時頃、天安門広場の西約10キロ離れた長安街の五棵松交差点で、第38軍が発砲を開始しました。その後木樨地(もくせいち)でも、市民に向かって発砲しました。

天安門事件の真相究明を長年続けている学者の呉仁華(ご・じんか)氏によると、当時、少なくとも解放軍陸軍の第20軍、第38軍、第39軍、第40軍と空軍空降兵(くうこうへい)第15軍などが一般市民に向かって発砲しました。 また、六部口(ろくぶこう)だけでも少なくとも3台の戦車が逃げる学生を背後から轢き、少なくとも11人が死亡し、多くが負傷しました。

元中国政法大学教師、歴史文献研究者 呉仁華氏
「当時、私は現場で悲惨な光景を目の当たりにした。学生たちと一緒に走りながら泣き叫んだ。106!106!すべての市民はこの戦車を覚えておいて。 この戦車を忘れるな」

中共中央文献研究室の元研究員・高文謙氏
「軍隊は裏通りにまで追いかけて行った。3〜4人が血溜まりの中に倒れているのを見た。私は帰ろうとして、塀の根元のところに逃げ込んだとき、70代の三輪車乗りの老人と一緒にしゃがんでいた。彼が言った言葉を忘れることはできない。『共産党は8代の徳を損なった。日本軍さえも、北京進攻の際、こんなには殺さなかった』」

天安門広場での軍による武力排除は6月4日午前5時半ごろまで続きました。

元北京体育学院学生 方政氏
「6月4日午前6時過ぎ、当時学生は天安門広場から撤退した。軍隊は広場の排除が終わると、広場に入っていた戦車が方向を変えて、狂ったように学校に戻る途中の学生の中に突っ込んできた。私がその被害者の一人だ。私の両足は戦車に轢かれてなくなった。私の周りには多くの北京の各大学の学生たちがいたが、みな轢き殺された。轢かれて姿形がなくなった人もおり、べちゃんこになった人もいる」

天安門事件の死者数は、いまだに中国共産党によって隠蔽されています。 国内外の人権団体は、死者数を数百人から数千人と推測しています。

2017年に、イギリス国立公文書館が天安門事件の機密文書を公開しました。文書には、中共国務院の関係者が明かした情報として、少なくとも1万人の民間人が死亡したと記されています。 また、2014年に米ホワイトハウスが公開した機密文書にも、戒厳部隊の情報筋からの情報として、約10,454人が死亡し、4万人が負傷したと記されています。

「公民力量」創設者 楊建利氏
六四虐殺(天安門事件)は一度だけの事件ではない。大小規模の虐殺は終っていない。法輪功、家庭教会、チベット人、ウイグル人、強制立ち退き、強制堕胎、闇監獄・・・これらはいずれも六四虐殺は中国でまだ続いていることを物語っている」

民主活動家 張健氏
「真相を知ることは非常に重要だ。次の世代に、中共が中国人民に対して犯した罪を心に刻んでおくようにしなければならない。これはとても貴重な歴史の史料だ」

 
 
 

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