シリーズ【百年紅禍】食人をめぐる群集心理の変遷 専門家「そこには卑劣な理由が」

多くの人々が命を奪われた文化大革命期間中、虐殺のほかに、広西チワン族自治区ではさらに食人の嵐も吹き荒れました。民間の統計によると、その被害者数は421人に上っています。

中国人作家の鄭義(てい・ぎ)さんは広西チワン族自治区を2度訪れ、5つの県で調査を行い、文革中に発生した食人行為を世界で初めて明らかにしました。鄭さんは『紅色紀念碑(食人部分の邦訳『食人宴席―抹殺された中国現代史』 (カッパ・ブックス))』の中で、広西省で行われた食人の過程を3段階に分けて記しています。

第1段階では食人は陰でこっそりと行われていましたが、ピークに達した時には、生きた人間から心臓や肝臓を取り出すという行為がいたるところで公然と行われるようになりました。最終的には群集心理の暴走段階に入り、人々の心にかろうじて残されていたひとかけらの罪悪感や人間性が、中国共産党が発起した「12級台風の階級闘争」によって根こそぎ奪われてしまい、一般大衆が食人の狂宴に巻き込まれていきました。

宋永毅(そう・えいき)教授とその研究チームが編纂(へんさん)した『広西文革機密檔案資料(広西文革機密文書資料)』には、文革中に広西チワン族自治区の31の県と市がこの狂気の嵐に呑み込まれていく過程が記されています。政府の機密資料によると食人の犠牲者数は302人ですが、研究者による民間統計ではその数は421人に上ることも併せて記されています。

米カリフォルニア州立大学ロサンゼルス校図書館、宋永毅教授
「一番ひどかったのは武宣県で、文書統計によると75人が犠牲になった。ここでの食人は市場で発生した。武宣県の人口は約30万人で、その市場には少なくとも数万人が集まっていた。人が集まったころに地主や富農、反革命分子や右派とその家族、もしくは反対派と呼ばれた人々に対する批判闘争が行われ、彼らは殺害された。するとその場にいた人々が死体の腹を裂き、肉や肝臓を貪り食った」

食人をした人々の中には未成年も含まれていました。桐岭(とうれい)中学副校長の黄家凭(こう・かひょう)さんは批判闘争中にこん棒で撲殺されました。次の日の午前、黄佩農(こう・はいのう)という生徒が黄さんの死体から肝臓を取り出すと、張継鋒(ちょう・けいほう)という女子生徒など数人が肉を切り裂き、最後は骨しか残りませんでした。午後にはこの中学校の調理室付近や宿舎の軒下などいたるところで、瓦を熱して人肉を焼く様子が見られたと記されています。

研究者により、広西チワン族自治区で吹き荒れた食人の嵐は民間から沸き起こったものではなく、国家により組織的に行われたものだったことが分かりました。なぜなら、広西チワン族自治区の当時の第一書記兼同自治区軍区第一政治委員の韋国清(い・こくせい)だけが、文革中でただ一人、攻撃にさらされなかったからです。当時、彼をトップとして省委員会、軍区、警察から武装民兵までの国家組織が完全に維持されていました。

文革当時、広西チワン族自治区には全国的にも類を見ない2つの特長がありました。それが「完全な国家組織」と「大規模食人の発生」です。

宋永毅教授
「人民公社の革命委員会主任も武装部部長もその場(殺人現場)にいて、人々は彼らに『(食人を)止めさせろ』と言った。だが彼らは『これは民衆運動だ。なぜ止めなければならないのか』と答えた。つまり、彼らは人肉食を支持していたのだ。さらにこの間、武装部長がしばしば先頭に立っていた。武装部は文革中に国家組織の役割を果たしていた。国家組織が直接関与し、手本を見せる力量に終わりはない」

隆安県(りゅうあんけん)のある民兵の話から、国家組織が人々を食人へとどのように駆り立てて行ったかを知ることができます。

宋永毅教授
「零有源というある末端民兵がいた。彼は人を殺してはいたが食人には手を染めていなかった。ある時、黄以荃という武装部長から、誰々を殺してこいと言われた。殺したら肝臓を切り取って持って来い、それを焼いて食べるからと。零は当然、そんなことができるわけがないと思って最初は手ぶらで帰った。すると武装部長から『次に命令に従わなかったら、お前を食ってやる』と脅された。最終的に、零は人を殺してから内臓を取り出すまでの一連の行為を積極的に行うようになった」

宋教授は論文の中で、機密文書に記載されていた、人間の腹を切り裂いたり肝臓を切り取ったりした殺人犯やそれらの計画者200人の名前を整理したところ、その60%が国家組織のメンバーで、さらに武宣県(ぶせんけん)の食人者の84%が共産党員又は幹部だったと述べています。

国家機関がなぜ食人を行わせたのでしょうか。宋教授はさらに大量の事例を調査した結果、殺人者の隠れた動機は単なる「階級闘争」から生じたものではなかったという結論に至りました。大躍進や大恐慌の時に起きた食人は、餓えた人々が命をつなぐために行ったもので、人々は食べられるすべての部分を食べつくしました。ですが、広西チワン族自治区で行われた食人で人々が食べたのは、心臓、肝臓、生殖器だったのです。

中国政府の統計によると、文革中に広西チワン族自治区で殺人に直接関わった共産党員は約5万人で、文革時代の問題を当局が1984年から処理したところ、同自治区では約25000人の党員が除名されました。

しかし当時の革命政権のトップ、韋国清(い・こくせい)には何の処罰も下されず、それどころか最後は中国人民解放軍総政治部主任、人民代表大会副委員長にまで上り詰めました。ですが韋国清はこの出世にも満足せず、当時次のように漏らしたと言います。「人を食べた人間が、なぜ幹部の座に居続けることができないのか?」


NTD Japan

 
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